八鹿酒造株式会社|YATSUSHIKA BREWERY CO.,LTD.

なしか!わ〜るど

Boy's Mind 1950


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イメージ画像2洗濯板
「洗濯板」はどうしてしまったんだろう。川で、もしくは井戸端でおばちゃんたちがあんなに重宝したものなのに。あれと、巨大な洗濯石鹸さえあれば、どんなにしつこい汚れも落ちていったのに。電気洗濯機というものが登場してからというもの、洗濯板は物置の中で冬眠することになった。たしかに洗濯はきつい労働ではあった。しかし、おばちゃんたちが集まって、みんなで楽しそうにゴシゴシとやっている様は、側で見てても楽しいものだった。衣服をしごくときのあの腕の筋肉は逞しかったし、そのときに揺れるおっぱいも、頼もしかった。しかしおっぱいの小さい人は「私ん胸は洗濯板やけん」と言って笑った。一緒になって笑うと小突かれた。


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イメージ画像2ヒューズの交換
「ヒューズの交換」は男の仕事だった。電化製品が家の中にぽつぽつと集まりはじめた頃、まだブレーカーというものがなくて、よく『ヒューズが飛ぶ』んであった。そこで、家族の誰もがわかる所である仏壇の引出しなどにローソクなどと一緒にヒューズの予備があって、それを取り出し、丸椅子を持って行き、ガイシを開き、ねじ回しで焼き切れたヒューズを外し、予備を接続するわけである。当然その作業中は家の中は真っ暗であるが、よくあることなので誰も慌てない。しかし一相手が電気なだけに、女性陣は苦手で、父親か男の子がやっていた。それにしても当時は頻繁にヒューズが飛んでいたが、それがどうしてかは家族の誰も知らなかった。


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イメージ画像2オート三輪
「オート三輸」が戦後日本の繁栄を担ったと言っても過言ではない思う。あの頃は本当によくオート三輪が走り回っていた。三輪だからバランスが悪そうだが、小回りが効いて、機動力があった。なにせハンドルもオートバイと同じで、方向指示機もパタンと倒れるやつだった。機能優先から乗り心地はよくなかった。運転席はホロで覆われ、いつもバタバタと音をたてていた。一度荷台に乗せてもらったことがあるが、後輪の上が盛り上がっていてクッションが悪く、勿論道路もガタガタなので、ひどく揺れてつかまるのに必死だった。それでもオート三輪は町の働き者として、人気があった。運転するおいさんもかっこよかった。


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